tamasen 校長ブログ

2016年04月の記事

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2016年4月24日(日)

地震について

 桜についての原稿を書いた後に、熊本地震が起こった。日本は地震国であり、特に関東はよく揺れる。欧米では一部の地区を除いて、地震は少ない。欧米の方の多くは日本で震度3程度を経験するとびっくりする。座り込んで、しばらく立ち上れない方もいる。我々は苦笑して大丈夫とは言うが。今回の地震は震度7である。とんでもない揺れであろう。私は2011年の東北大震災の時には栃木県下野市(宇都宮の南)に居住しており、仕事場で震度5強の揺れを体験した。この程度でもビルの中の全員が外に逃げ出す大騒ぎであった。今回のブログでは私の地震体験と感じることを記述する。

 岡山では震度の高い地震が少ないのは確かかもしれない。1970年から1995年の阪神・淡路大震災までの間は、震度4以上の地震は観測されていない。私の記憶でも最初に凄いと感じたのは阪神・淡路大震災の時である。朝5時頃に揺れが起こり、目が覚めた。揺れは長時間(と感じた)であり、子供たちの2段ベッドを支えながら、震源はどこであろうと考えていた。私の子供たちは寝ていて全く揺れの認識はない。住居での震度は4程度であった。家に中のものが倒れたり、壊れたりすることはなかった。テレビをオンにすると、「揺れはひどかったが、おおむね被害は少ないか?調査中。」との内容を放送していたが、突然に神戸の映像が出て、「高速道路が倒れている。火事の煙がたくさん上がっている。」との放送が始まった。その後のことは、皆さんがご存知であろう。この時には、岡山大学医学部に勤務しており、岡山大学医学部は多くの支援活動を行った。ただし、残念ながら、私自身は他人事と感じていたように思う。
 それから、かなり時間が経過した後、東京出張時に地震に遭遇した。新宿の高層ビルの上で鍋料理を食べていた時に、地震が起こった。フワーと揺れるのである。振幅は大きくなり、鍋の料理・汁の一部がこぼれた。店内の客は手を止めて、じっとしていた。揺れはゆっくりと止まった。店員が「支払いはいらないので、すぐ降りてください。」と言われ、普通にエレベーターで降りた。下(地面部分)で周りの方に聞くと「大した地震ではない。」と言われた。特有の高層ビル地震であろう。この時も、フーンと思い、緊迫感はなかった。
 
 本当に、緊迫感を持って、地震を感じ、基本対策が必要と思ったのは2011年3月11日の東北大震災の時である。この時、私は栃木県下野市の自治医科大学に勤務していた。居室・研究室は3階にあった。勤務中の午後3時前である。小さい揺れが起こり、すぐに大きな揺れとなって、上下・前後左右に揺す振られ続ける状態がしばらく続いた。気分的には3−5分と感じた。これは大きいと感じ、すぐに使用していたデスクトップパソコンをシャットダウンにして、机を支えにしながら、外の廊下を見ていた。
 地震が治まってから撮った写真を添付する。写真1は私の居室の前である。



洗浄したガラス器具・プラスチック物品の保存キャビネットが並んでいた。写真では、扉が開いているが、カギはかけてないものの地震前は閉じていたのである。地震による振動で扉が左右に連続的に動いた。開いた部分から中のガラス瓶・フラスコ・プラスチック物品が水平に飛び出して、垂直に落下してガラス類は割れていった。揺れが続いた間は、場所を変えて、器具が飛び出してくることの連続であった。私は、これを不思議に落ち着いてじっと見ていた。秘書の女性は、当然であるが、キーキー騒いでいたが。居室の天井パネルも数枚落ちた。自治医大での震度は5強とされている。揺れが落ち着いて、皆は外の広場に避難し、ネット検索で東北が震源で、大地震であることを知り、その後に津波のことを知った。自治医大では渡り廊下が少しずれた程度(耐震性には問題ないとされた)であり、人的被害はほとんどなかった。本の山・書類の山が崩れて軽傷を負ったくらいである。周辺の住宅は私の宿舎を含めて大きな被害はなかった。ただし、市の分庁舎などいくつかの建物は、ひびが入り、使用不可になったものがある。近隣の陶磁器生産で有名な益子(自治医大の東方、茨城寄り)では建物被害は多く、登り窯は全壊した。自治医大では何組ものチームを被災地に継続的に送り、全国の自治医大卒業生のグループも支援チームを送った。全体の状況は皆さんご存知のことである。


写真3枚を見ると、軽い物や置いただけの棚は倒れ落ちたのが分かる。しかし。キャビネットなどは扉が開いていても倒壊するものはなかった。これには理由がある。この地震の数か月前に、事務・工作室の面々が来て、キャビネット・本棚など倒れる可能性のある設置物はすべて固定すると言った。消防署の査察で大変厳しく指摘されたためであると言った。ずいぶん昔から,ほったらかしであるのに、めんどくさいではないかと私が言ったのであるが、大学費用で行うとことで、床もしくは天井に固定する工事が行われた。めんどくさいのである。固定されると部屋のレイアウトを1センチずらすために、固定解除・再固定が必要である。無駄な費用と当初は思っていた。その所に、大地震である。以後、だれも棚固定工事に文句を言う人はいない。
 自治医大周辺でも地震の後が大変であった。水道は稼働したが、ミネラルウウォーター、インスタントラーメンはすぐ売り切れ、不思議なことにトイレットペーパーや乾電池が売り切れた。計画停電もあり、ガソリンもなくなった。勤務時間であっても、ガソリン補給に出かけて良いとの御触れがでた。しかし、我々の居住区域はまだずいぶんましであったと思っている。

以降は、ミネラルォーター(2Lペットボトル)数本、ラジオ付き懐中電灯、懐中電灯、ポータブルガスコンロ(数本のガスボンベ)、およびインスタントラーメンやパンの缶詰などの保存食料は保持を心掛けている。
岡山に戻ってきて、自宅のセットアップを行った時、家具を添え付ける場合に、地震対策用の突っ張り棒(天井と家具間)や傾き板(家具の下に差し込んで壁側に傾ける)の設置を頼んだ。岡山の業者は、「岡山で地震?」との顔つきであり、ホームセンターの品ぞろえも少ない。岡山での地震対策意識は非常に低い。

 今回の熊本地震である。九州も地震は少ない地域と思う。突然に2度の大地震に襲われ、それも震度7ではとんでもないことである。テレビでは緊迫感が刻々と伝わってくる。私の知り合いが本年の4月から熊本市で働いている。熊本は彼の出身地であり、よかったと思っていたらこの地震である。連絡をとると少し離れた実家に避難してなんとかなっているとのことであった。自宅であったマンションはドアが閉まらないと言っていた。東北大震災の時には電話が非常に繋がり難かったが、今回は繋がった。一安心であった。しかし、当事者は大変である。必要な物を送ろうにも、20日には個人用はダメと言われた。少し落ち着いたら。連絡をとってみようと思いながら原稿を書いている。私はもう高齢者であり、ボランティアに行っても足手まといである。東北大震災を少しは経験したので、本当に身につまされる思いであるが。

 岡山での近年の地震で大きかったのは2000年の鳥取県西部地震のようである。岡山県北では震度5のようであるが、岡山市の大部分は震度4と聞いている。この地震の時には、栃木在住であったので、岡山に住んでいる母に電話したが、「揺れたけど、まあ大丈夫。なんともない。」とのことであった。

 上述したが、岡山での地震対策意識は非常に低い。しかし、地震は突然来るものである。岡山でも緊迫感を持って最低限の準備はするべきである。住宅の耐震化はなかなか困難であろうが、家具の転倒防止はさほどの費用はかからない。とにもかくにも数秒から十数秒あればとっさに逃げることは可能であろう。後は、ミネラルウォーター、ラジオ、懐中電灯、保存食料は保持を心掛けて、定期的に使用しながら入れ替えることが必要である。
 もう一つ思うことがある。地震では最も被害の大きいところが報道される。地震後しばらくは当然のことと思う。しかし、時間はかなり掛るとは思うが、周辺地域を含めて、被害状況と避難状況を経時的にマップ化して提示して欲しい。県のホームペイジなどで提示し、提示先を報道などで紹介すれば良いと思う。東北大震災の時には東京の知り合いは、栃木はかなり家がつぶれた(一部はそうであるが)、埼玉から北は全壊と思っていた人もいれば、栃木は内陸で津波はこないから問題はないと思っていた人もいる(津波はこないが、地震被害は地域によって相当であった)。茨城の知り合いは、「地震と津波で大被害であるのに(特に北茨城は)、報道は東北が主要で、東京の人は茨城では何ともないと思っている。」と言っていた。繰り返すが、地震当初は仕方がない。かなりの時間経過のあとでも、被災・実情をファイル化して欲しい。すぐには無理であるのは承知しているが。今回の熊本地震でも。避難所にはまだ何万人もの方が暮らしていると聞く。一方で、いくつかのスーパーは最低限には稼働しているとも聞く。熊本市や阿蘇地方およびその周辺はどのような状況であろう。区域でかなり異なると思う。被災・実情をファイル化し経時的に提示すれば、知人などの状況も想像ができるであろうし、最終的には効率的な支援活動にも役立つと思う。
(4月24日)

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2016年4月15日(金)

桜 -膨花、浮花、釣花、そして流連花-

 春、4月である。桜の季節。

桜には汚が少ない。

 私は前のブログで、「若い頃は花がさほどは好きではなかった。花は一瞬には華麗であっても受粉のための一時的な化粧であり、やがて汚となって消え去るとの思いがあった。」と書いた。しかし、若い頃から、桜は好きである。
私の高校3学年の時である。校舎は、木造の3階立てであった。私の教室は3階であり、3学年と成ったばかりの4月初めに、窓際から下をぼんやりと眺めていた。晴れであった。眼前に1本の桜があり、満開を過ぎた頃である。少しの風で、小さき花弁がゆっくりと回りながら次々と降っていく。その降りる先には多くの花弁が地面に、踏み石に既に在る。その花弁を踏みながら、同窓生たちが行き交っている。花弁は白き反射を残しているものも多いが、踏まれながら白さを失っていくものもある。地に染み込んで土と同化していく。目の前の桜木には桜白色の花は残っており、黄緑の柔らかな葉が伸びつつある。地より生まれたものが、花となり、やがて速やかに地に帰っていくように感じられた。汚のない空想である。

桜には多くの種類があるが、代表はソメイヨシノである。上に書いた桜もこれである。ソメイヨシノは花が満開を過ぎてのち、葉が伸びる。花芽は一か所から輪状に伸びていき、咲くと玉となる(図1)。


冬に樹は褐色であり、樹枝のフラクタレルは判然としない。春が近づくと、花芽が膨らんで多数の赤褐色の小玉を不規則に貼り付けた態となって、雑然とする。やがて、数輪の花が咲きはじめ、空間にその明白色を主張する。花が咲きだすと一気であり、花玉は無制限、全体に付く。木は一気に膨らみ、桜白色の暖かな雪にくるまれる。膨花である。満開を少し過ぎた時、薄曇りの日に、桜並木に佇むと、頭上も地も明白色の反射光につつまれ、天と混沌となって、深さのない広がりのみを感じる。
 一方、ヤマザクラは様々である。ソメイヨシノに似て花の後に葉がでる種もあれば、葉を伴って花がさく種もある。葉は初期には赤褐色が多い。岡山の低山では、落葉広葉樹が多く、冬には山全体が深褐色の線描であり、冬の透徹した大気の下で、陰影は厳然としている。山稜は櫛様に空が透ける。3月になると山全体が少し赤味を帯びる。しばらくすると、突然に様々な柔らかな色彩、明るい黄緑、赤褐色、そしてまだらな白色が描出され、パステル色は拡大していく。里山全体の風景が曖昧となる。その中で、ヤマザクラの桜白色は清楚ではあるものの強い存在感を示し、その多様な明彩が全景に広がりと深さと変化を与える(図2)。


初春の揺らいだ大気の中で、すべてが立ち上がり広がっていく息吹と、背景にある大地の強さを感じる。
このヤマザクラの花の付き様や花数は様々である。ヤマザクラを夕暮れの薄暗い時刻に間近で見ると、樹枝や葉は闇に溶け込み、花のみが薄白く、ぼんやりと浮かぶ。光が当たればより明確に花が浮かぶ。浮花である。闇に浮かぶ白い花弁の向こうには別の次元がある。
また、ヤマザクラの中には花柄の長いものがある。花数は少なく、花は枝から釣り下がっている。花が間隔を開けて連なると、下への方向性を感じ、その感覚は花で止まる。微風で花が揺れ動くと、感覚も揺れ動く。浮花と同様に薄暗い時刻に強く感じる。釣花である。

 別の趣として、しだれ桜がある。通常の桜はそこに在るものであり、その姿は脳裏にピタリと貼り付けられる。一方、しだれ桜では地に向かう不連続な流れがあり、見つめる時に視点を長く定めることは難しい。脳裏の映像には不安定さを感じる。特に樹の大きいもので、その感覚は強い。
 私が今まで見たしだれ桜では最も印象が強いものは三春の二樹である。福島県三春町である。私が訪れたのは2005年4月であり、大震災のずっと前であった。まず、一つ目は高名な三春の滝桜である(図3)。


滝桜は町郊外にあった。少し離れてソメイヨシノもあるが、滝桜は畑地に、それのみ、傲然と在った。大樹である。ソメイヨシノは寿命が100年に満たないと聞くが、しだれ桜は長い。滝桜の樹齢は確実に1000年を超えると聞いた。実際の花は小さくないが、大樹であり、全景を見る位置に立つと花は細かく感じる。小さき桜色の粒を不規則ながら下へ下へと繋げた縄が幾筋も重なるように枝から落ちる。その奥に樹齢を感じさせる黒緑色の樹皮が見え、その向こうに青空が見える。確かに滝である。その流れを感じる。すべては地に向かうが、四方へも不規則に流れ散る。透けて見える空がその感覚を強める。しかし、不思議とその重さを感じなかった。頂に少し浮いて短い花縄のついた枝が見え、これが高さを強調していた。 
樹近辺では、微風であったが、花縄はさほど揺れていない。空高くでは、風は強いのであろうか。見つめていると、透けた空に雲が右方に動いて行く。ゆっくりと動くのが見える。静である下方への花縄の流れと、動である右方への雲の流れを同時に得心し、自らの体が不安定に上下に揺れ、右へ引っ張られるのを感じた。
樹の正面には3本の幟が立っていた(図3)。風景としては幟がない方が自然であろう。しかし、私は幟がある姿、幟がある写真が好きである。全く人の気配を感じさせない姿、写真はそれだけである。幟の存在は、桜への人の思いと情念を感じさせ、写真に現実感とインパクトを与える。
もう一つ印象深いのは福聚寺のしだれ桜である(図4)。


滝桜を見た後に三春の町内を散策した。途中に福聚寺を訪れた。寺の伽藍から少し離れて大きなしだれ桜があった。伽藍からみると、ソメイヨシノ樹群の上方の高い位置に、竹藪を背景として見える。丘の中腹に生えているためであろう。伽藍の中ほどの高い位置からみるとほぼ正面に見える。花色は滝桜より濃い。紫を帯びた桜色である。桜紫色の大きなかたまりである。花は密であり、少し離れていることもあって、樹枝ははっきりとは見えない。花塊から多くの長い花縄が垂れ下がっているのが分かる。その時、風が強くなった。背景の竹は、その剛性により、さほどしならずに左右にザワザワと揺れる。頂の竹葉群の大きなしなりが風の強さを示す。しだれ桜も揺れる。全体ではゆったりと左右に揺れる。ただし、竹林の揺れと同期しない。花塊の中でも揺れは同時ではない。花塊の中の小塊がそれぞれに時間差を持って揺れる。小塊についた花縄もそれに従って鞭のようにしなり振れる。下方の長い花縄の群れは別の周期でゆったりと振れる。流連花である。桜樹の音は聞こえない。大小のティンパニをばらばらに軽く気ままに叩いている印象であり、その音圧のみを感じた。全体では調和はとれている。高揚した酔いの感覚である。この樹には大いなる重量を感じた。

 三春の街にはしだれ桜も多いがソメイヨシノも多い。ゆっくりと歩きながら、春の暖かなエーテルを十分に満喫した。小さな寺に立ち寄り、二階の書院から外を眺めた。開け放たれた障子窓の眼前にはソメイヨシノが誇り、中央には大きなしだれ桜、おそらくは福聚寺の桜、が遠望された(図5)。

切り取られた春爛漫である。ゆったりとした良き散策であった。

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